海に生きる八幡暁の”足元サバイバル”#7~足元にあるアウトドアとは?~

海の民たちの日常は、自然と常に密接


この記事を読んでいる皆さんは、おそらく外遊びが好きな方が多いと思います。

山、海、川へと繰り出し、街の時間とは違った非日常で思い切り身体を動かしたり、焚火をしたり、ボーっとしたり。過ごし方は多様です。

わたしも見知らぬ世界へと漕ぎだしては、海の民に触れ、心動かされてきました。

彼らの暮らしを見て思うことは、日常の暮らしが、自然と人の関りの中にあることです。

非日常も、遠いどこかではなく、身近な暮らしの中に作り出していました。


満月の月明りであり、豊穣の祭りであり、雨のもたらす恵みでありました。

自然と共に生きることは、自然をよく観察することでもあります。

それは海を渡ることも、陸で暮らすことも同じことでした。

身の回りに目を向けてみると……

しかし自分の街に戻ってみると、自然の上に暮らしがあるのは違いないにも関わらず、子どもの多くの時間は学業やスポーツに費やされ、父母は子育てや仕事で忙しくしている現実があります。

身近な自然が、暮らしから少なくなっている?(無くてもいいでしょ!? という声もあると思いますが……)


便利な時代こそ自由な発想が求められる


外遊びの情報、自然の情報は、かつてないほど得やすくなりました。遊び方も道具も、便利なものが揃っています。

それなのになぜ、暮らしから自然が離れてしまうのか? また失ったものは何か? 考える必要がある気がしていました。

自分が子供の頃には、道具も遊び方の情報などなくとも遊んでいました。

自由な発想で遊びまくっていたといって良いかもしれません。

周りには監視する大人はいなかったし、遊びのルールは自分達で作っていたのです。(今思えばかなり危ないこともありますが……)

過去を美化するつもりはないのですが、現代とはちょっと様子が違うように感じます。

プラス面があるから自然が必要?


学習塾、サッカー教室などは以前からありますが、スマホやゲームが台頭し、将来になりたい職業の一つに「ユーチューバー」があがっているそうです。ゲームを仕事にする人も出てきています。

一方で、自然環境が子供にもたらすプラスの効果! そんな言葉を聞くこともあります。

子供にとってプラス面があるから遊ばせるということにもどこか違和感がありますが、そうでもしないと外で遊ばないことの裏返しであるのかもしれません。

普段の日常からアウトドア的に過ごす

何が正しいか、正解もないですし、誰にもわからないのですが、身体を動かして遊ぶ、自分の街で遊ぶことが楽しい、そんな時間を子供たちに過ごしてほしいと思っていました。

アウトドアと呼ばれるような大袈裟なことではなく、もっと日常の中で思い切り五感を使って過ごして欲しい……子どもが思い切り遊べる環境作りをしたい。


わたしが見てきた漁村の多くで子どもたちは自由に遊んでいたのです。

遊びの中から、生きることを学んでいました。

つまり感じて考えて動いて遊ぶことは、生きることにほかならない気がしたのです。

身近な存在から始めてみる


といっても、わたしは教育の専門家ではありません。

自分の専門でもある海が、その土地の子供にとって遠い場所だとすれば、いきなり連れて行くようなこともできません。

では何ができるのか。自分の家の近くの公園に顔をだして、そこで一緒に遊ぶことからやってみよう。

近所のオジサン、それであれば気負うこともなくできそうです。


子どもたちは遊びの天才


そう決めてからというもの、夕方、行ける時はできるだけ公園に行くようになりました。

当時、息子は4歳児。沖縄県の石垣島から移住してきた土地なので、周りは見知らぬ子達だらけでしたが、顔が知れればだんだんと一緒に遊ぶようになっていきました。

おにごっこやボール遊び、公園で木登りからはじめ、近所の道なき崖をよじ登ったりと、公園の遊具で遊ぶだけではない遊びを一緒にやってみます。

散歩をしては、皆が雑草だとしか思っていなかった野草を食べたり、木の実を口にいれながら歩いたり。

子どもたちは遊びの天才です。

本質は昔と変わらない


花壇の草むらに入り込む。魚役と釣り人役を決めて、落ちている枝を使って釣りごっこ。

火のリスクが無い場所では、枯れ木を集めて焼き芋。

時には危ないことも平気でやるわけです。

それでもできるだけ止めずに見守ることを大事にしていました。

こうした時間を過ごすことで、一つの確信が生まれていきました。子どもは昔と変わらないということ。

環境さえあれば、全身で遊ぶのでした。

都市生活でもやれることはある


まずは自分で出来ることからやってみよう、から始まったいろいろ。

家の庭木を全部、食べ物に変えました。そして庭の鳥、ニワトリを飼って、自宅から出た生ごみで育ててみること。

育て始めて数か月後、はじめて卵を産んだのを見たときは感動したし、人の体温より暖かい卵をアツアツのごはんに乗せて食べたときは、少し涙が出そうでした。


水は水道から出てくるけれど、本来はどこかの河川から取水したものです。

自分の家の近くの水場を調べ、水道が止まっても湧水が採れる場所を探します。井戸もいくつもありました。

一年を通して自宅の半径5キロにある草木で食べられるものをつぶさに探す。


そんなことも子供と遊びながら。自宅周りを遊びつくしていくと都市生活の中でもアウトドア的に生きていけることがわかってきたのです。

これを自分だけでなく、近所の子どもや大人と共有していくことで、暮らしがもっと豊かになるのではないか、そう思うのです。


昔からの習慣に今一度目を向ける


今の時代は、隣近所と付き合わなくても、お金があれば不自由はありませんし、共有地のような場所を手入れしなくとも行政が何とかしてくれます。

好きな時間に好きなことができますし、繋がりたい人とだけ繋がっていることも可能です。

専業化、専門家の進んだ都市生活は、昔から、自分たちの暮らしを自分達で作ってきた習慣を遠ざけるようになっていました。

それって良いことなのかな? 新たな疑問が生まれます。

暮らしの全ては、日常の足下(アウトドア)から始まります。


「食べる、遊ぶ、作る」こと。これを地域ぐるみでやれないだろうか。

弱い人間がよりよく生き抜くために培ってきた知恵には何か本質的に大事なことがある気がします。

課題は次から次へとやってくるのでした。

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