生きるための「水」
人が生きる上で、必要なものは何か。今の時代であれば「スマホ!」という人もいるかもしれませんが、身体の70%は水分でできていると言われるように「水」は全ての人にとって必要不可欠です。私は旅をするようになってから、そのことを実感しました。
見知らぬ土地、文明が入り込まないエリアに人力で旅をする際は、水源を探すことが絶対条件。それはどこからやってきて、どこへ向かっていくのか。水源が汚れれば、飲み水の確保は難しくなります。人一倍、その大切さを知っていたはずでした……。
排水はどこへいく
使った排水を処理しきれなければ、流れる先は海です。自分の住まいの庭に毒をまけば、自分の暮らしに直接的な被害があるのと同じことであるというのに、どこか遠くの世界の話のように、長い間考えていたのかもしれません。気にしたことすらなかったのです。日本には綺麗な水道水、完備された上下水道が整っている。街は煌びやかで不潔なところはないと思っていたのですが、都市部の裏側を、目黒川を歩くことで気づかされたのでした。
雨が降ればいまだに未処理汚水が流入し、直接、海へと流れ出しているとは、今でも信じられないくらいです。地面のコンクリートを剥がして合流式下水道を分流式に替えることが、根本的な解決策ですが、個人の努力ではどうにもなりません。これは行政の仕事となってしまいますから。
雨の日のお風呂をやめる?
一個人がやれることといえば、雨の日には水をできるだけ使わないこと。つまりお風呂に入らない。晴れるまで、使った皿を洗わずに置いておく。そういったことくらいです。雨の日の、未処理汚水の垂れ流しを防ぐために、雨の日はお風呂に入るのをやめるだけで回避できるとすれば、無理なことではないとも思えますが……。
いや待てよ……。事の本質は、水のことだけでなく、あらゆることを誰かに預けてしまい、問題すら見えなくなっているのが原因なのではないかとも思えました。
知れば意識が変わる気もするのですが、そう簡単ではないのかもしれません。
「アウトドア=生きること」と考えている自分も、どこかに行ってサバイバル的なことをして楽しんでいたにすぎないのではなかったか。
食べ物を育てて収穫する、漁をする、水を確保する、そんな基本を知っている気でいたのに、一番身近な暮らしの場で知らぬままであれば、環境問題どころか、生きる実感や、その土地への愛着が生まれないのは当然である気がしてきました。
自分なりの答えが見えてきた
私が旅で立ち寄ってきたほとんどの漁村は、便利さの享受などないまま、毎日、井戸で水を汲み、火を熾し、魚を捕る、その土地にあるものを食べ生きていたよな……。ここではないどこかでなく、自分にとってまさに手の届く身近なところから始めるのが、一番ではないかと思えてきたのです。本当に大切な庭へと変える
そう思ったが吉日、やるべきことは家の庭の手入れからでした。庭には鑑賞用の木や草、花が植えられています。今まではその手入れさえ業者に任せていました。食べるものはありません。野菜も果物も、食べるものはお店で買うだけだったのです。そこで極端ではありますが、庭を全部、本当に大切だと思うものに変えよう。そう考えた結果、植えるものは食い物、食い物、食い物、でした。菜園の知識はゼロですが、大好きな果樹と野菜を植えるべく作業を開始します。
さて植えるのものは……好きな果実! 好きな野菜! です。柿を植え、ブルーベリー、夏みかん、レモン、ビワ、アシタバ、ニラ、イチゴ、ジャガイモetc.……。
燃料として活用する
以前から生えていた木を掘り起こし、根っこを切り、倒す。普通、重機でやる作業も全て人力で、時間をかけて掘り起こしていきます。倒された木々は、ゴミに出すのではなく、手作りロケットストーブの燃料として使います。何日経った頃には、見事に殺風景な庭になりました。わたしにとっては目の前に現れた荒野です。
ここは海辺でないので、すぐに魚を獲ってくるという訳にもいきません。そうなると毎日食べるタンパク質が無いな……。豚は家で飼えないし、沖縄のようにヤギとなると臭いが気になります。住宅街の中では難しそうです。
ニワトリを飼い始める
今までの旅を振り返ってみると、多くの漁村でニワトリが人と一緒に暮らしていました。残飯を食べながら、庭を走り回っていたのです。卵も採れるし、肉としても食べられる。人の暮らしにもっとも近い家畜かもしれません。さすが庭の鳥!鳴き声の問題はあるけれど、夜だけは頭を上に伸ばせない小屋に入れてあげれば明け方に鳴かない、という話を聞いたことがあります。昼は庭を走り回らせて、我家地鶏にできるのではないかな。そんな思いつきで黒いニワトリをヒヨコから飼い始めました。
自分たちが食べたものは、そのままニワトリへ。ニワトリが食べられない残飯はコンポストで分解し、庭の土に混ぜ込めれば無駄がありません。今まで、なんのワクワクも感じなかった庭が、小さな宇宙を得たように呼吸しはじめました。
目の前のドラマに感動
自分の飼っているニワトリの身体作るのが、庭の土なのです。ニワトリは庭のミミズをついばみ、また身体へと入っていきます。ひらひらと落ちてくる桜の花びらや、庭の雑草、虫までも体に取り込み、どんどん成長していきました。こうした目の前の他愛のないドラマも、手触りのある感動をもたらしていくのでした。
命のあたたかさを知る
「おとうさん!!! ぴよぞうがたまごうんだー」朝、幼稚園に行く前、4歳になる息子が叫びます。ん……? ぴよぞう、メスだったのか!
家族みなの驚きでした。
「へんななきごえしてたから、なんだろなぁーってみてたらさ」
学校に行く前の忙しい時間、息子は座り込むニワトリをじっと見ていたようでした。手にはまだ人の体温よりあたたかい卵を大事に持ってやってきたのです。
息子にとっては初めての生まれたての卵でした。売っている冷たい卵ではありません。横並びで同じことを同じスピードで習って競わされる日常もありますが、これこそが大切なことじゃないかと、腑に落ちていくものがありました。
卵かけご飯に学ぶこと
「よし、このまま卵をあたたかいご飯にかけて食べよう!」色は売っている卵よりはるかに薄い黄色でした。良い卵は濃い黄色の卵黄になるのかと思っていましたが、ニワトリが食べているものによって黄身の色も変わっていくのだと知りました。
ぷっくりと大きくふくれ、箸で触ってもなかなか黄身が崩れないような高級卵ではありません。どちらかと言えば厚さも薄っぺらな感じです。
それでも目の前の庭で、自分たちの食べていたものと同じものを食べて生み出されたあたたかい卵です。醤油を少したらして、かき混ぜます。
見た目はごく普通の卵かけご飯です。味は、正直、売っている卵と違いはなかったと思うのですが、息子は今までで一番美味しい! と目を輝かせていました。
いつもの食卓が違ったものに
たった一つの卵、それでも一生忘れられない卵となりました。「食べることは、命をいただくことである。」
当たり前のことが、家の庭でおこなわれたとき、普段の食卓の見え方さえも変わってきたのです。